道の駅 みつまた

三国街道

越後側三国峠上州側

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荒戸城跡

天正6年 (1578) 3月、上杉謙信の急死後、跡目相続の争い(通称、御館の乱(おだてのらん))が起った時、小田原勢の侵攻を防ぐため、上杉景勝が急遽築かせたものです。北条方の猛攻により荒戸城は落城し、湯沢一帯は北条方の支配地となりました。

上杉方に一度は奪還されましたが、北条方の猿ヶ京衆の攻撃で再度攻め落とされました。この戦で、直江兼続の叔父と言われる樋口主水助 (ひぐちもんどのすけ)兼一が戦士したと言われます。直江兼続は、御館の乱で破壊された「泉福寺」を、樋口主水助兼一を弔うために再興したと伝えられています。 

戦国時代の山城としては、築城の年代がはっきりしており、さらに城郭が完全に保存されていることなどから歴史的に貴重な遺跡です。昭和51年(1976)3月31日、新潟県文化財に指定されました。

旧脇本陣「池田家」

天明年間 (1781-) のころから脇本陣をつとめた池田家の建物は、370年ほど前に建てられたと伝えられています。

江戸時代の大名の参勤交代の折には、大名の家老などが宿泊し、佐渡奉行が佐渡へ赴任する折にも使われました。明治時代には、明治の元勲、山県有朋や文豪、森鴎外が宿泊した記録もあります。

米や小千谷・塩沢などの織物産地と江戸とを結ぶ、重要な物流ルートであった三国街道の問屋・旅籠でした。嘉永元年 (1848) の三俣大火、慶応4年 (1868) の戊辰の役、大正7年 (1918) の大雪崩の難も免れ、江戸時代当時の姿を今に伝えています。昭和29年 (1954)、新潟県の文化財に指定されました。

旧脇本陣「越後屋」

元の建物は大正7年 (1918) の大雪崩で失われ、現在の建物は再建されたものです。江戸時代、越後で生産された越後縮は、塩沢 → 関 → 湯沢 → 三俣 → 二居と宿継ぎされました。

江戸の呉服商は、三俣宿に常宿をもっていました。ここ越後屋は、江戸時代の呉服商として有名な「越後屋(現三越)」の仕入れ担当番頭などの常宿として暖簾分けされ、「越後屋」を名乗ることを許されました。

伊米神社

山岳信仰の山、苗場山の里宮で、祭神は九柱ですが、御神体は二柱の神で農耕と山の神を意味し、俗に十二様と呼ばれ、祭日もそれに因んで7月12日と定められています。

この祭日には、昔ながらの烏帽子姿の担ぎ手によって御輿が担がれ、地区をまわります。その行列は、かつての脇本陣や問屋に立寄って休むのが慣わしとなっています。

神輿は200年ほど前に大阪で作られたものが、北廻船で新潟まで運ばれ、信濃川・魚野川の川船で六日町まで運ばれてきたものと伝えられています。

平安時代の延喜年間 (901〜922) に定められた「延喜式(えんきしき)」にも名がある由緒ある神社です。

雪災碑

大正7年 (1918) 1月9日の夜半、三俣宿を襲った大規模な雪崩は、158名もの命を奪った世界的にも類をみない雪崩災害となりました。多くの義援金が寄せられ、被害者の霊を慰め、被害の惨状を後世に伝えるため、雪災碑が建立されました。

旧本陣「冨沢家」

旧三国街道の二居宿、大名などが宿泊した本陣として使われた富沢家。慶応4年 (1868) の戊辰の役の際、官軍が越後に入るのを防ぐために会津藩兵が三国峠で戦い、この戦に敗れた会津藩兵が、二居宿をすべて焼き払い退却しました。

現在の富沢家の建物は、その翌年の明治2年 (1869) に、焼失前とほぼ同じ規模に再建されたものです。

越後側三国峠上州側

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三国権現御神水

三国峠手前の水飲み場。三国山の山腹から湧き出した冷たい雪どけ水を飲みながら一服。

三国峠・三国権現

峠には三国権現が祭られています。三国とは、越後・上州・信州の三国を意味し、三国権現(御坂三社神社)は、越後一宮の弥彦神社、上州一宮の赤城神社、信州一宮の諏訪神社の三神を祭っています。

その昔、征夷代将軍坂上田村麻呂が草津の東夷との戦の戦勝祈願をするために祭った社をここに移築したと伝えられています。苗場スキー場のある浅貝地区の村の鎮守として、信仰を集めてきました。

また、ここからは三国山への登山道が伸びています。ここを通った著名な人々の名が記された石碑があります。

三国峠の動植物

旧三国街道の道脇の樹木は、高木ではミズナラ・トチ・ブナが主役。群馬県側には一部ではありますがカラマツが沢山植林されています。低木はリョウブやヤマツツジ、ツル性の樹木はツルアジサイやフジが主になっています。

フシグロセンノウ
by ephemeral_snow
春にはニリンソウが道を覆うように咲き、お盆前後の夏には三国以外の新潟県では生息していないフシグロセンノウというナデシコ科の野草が咲いています。濃い橙色の花は、薄暗い林の中で艶やかさを競うように数本纏まって咲いています。

秋になるとミヤマガマズミやオオカメノキが赤い実をつけて野鳥たちに沢山のごちそうを提供しています。また峠から三国山へ登れば、ニッコウキスゲ・チシオシモツケ・クガイソウなどの高山植物の群落がみられます。

この地域一帯は、日本に生息している動物のほとんどの種類が確認できます。日中、目にすることはないでしょうが、クマなども行動しているので注意が必要です。

ゆっくり時間をかけてのトレッキングは森林の素晴らしさを十分に堪能できるでしょう。

駒返し・馬頭観音

上杉軍が関東へ兵を進めた際、猿ヶ京の宮野城が沼田城代海野能登守(うんののとのかみ)により炎上したとの知らせにより、ここから引き返したことから名付けられたといいいます。

近くには街道で急死した馬を弔うために建てられた馬頭観音があります。仏教には「六道輪廻」という思想があり、畜生道を化益(けやく)する六観音の一つとして祭られている馬頭観音がありますが、ここのように単独であるものは、街道で急死した馬を弔うために建てられたものです。残念ながら、馬の頭の部分が欠けています。

長岡藩士の墓

元文5年 (1740) 2月5日、江戸から罪人を護送中の長岡藩士7名が峠近くで雪崩にあい遭難しました。冬の三国峠越えの恐ろしさを象徴しています。

晶子清水

与謝野晶子が峠を越えた時、手ですくって飲んだことからそう呼ばれます。

三坂茶屋跡

坂上田村麻呂ゆかりといわれる田村家がこの地で営んだ茶屋の跡です。峠越えの旅人にとってなくてはならないお助け小屋でした。

ここに建つ「ある日の三国街道」碑には、文久3年 (1863) に参勤交代制度がなくなり、江戸藩邸に人質として住んでいた越後長岡藩の妻子一行が国許である長岡へ向う旅の様子が記されています。これ以降江戸の人口が減り、江戸は大変な不景気になったといいます。

越後側三国峠上州側

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大般若塚

大般若塚は、宝暦3年 (1753) に、三国峠に出没する妖怪変化を封じ、さらに街道で遭難した人々を弔うために建てられたものです。

また、この地は慶応4年 (1868) の戊辰の役の前哨戦といわれる三国戦争の舞台となりました。この時、会津藩士町野主水 (まちのもんど)の17歳の弟久吉が壮烈な戦死を遂げました。敗走する会津藩士は、官軍の進軍を遅らせるために、浅貝・二居の宿場を焼き払い、小出まで退却しました。

永井宿・永井郷土館

旧三国街道群馬側最奥の宿場。元禄2年 (1689) に問屋場となり、主に越後米の集積地として陸の船着場と呼ばれるほどに繁栄しました。本陣・脇本陣など最盛期で30戸ほどがあったといわれます。越後諸藩の参勤交代時や佐渡奉行赴任時の休泊地としての役割がありました。

宿場は何度か火災の被害を受けましたが、今でも家並みなどに昔の面影をしのばせてくれます。宿場関係の資料や与謝野晶子や若山牧水などの文人墨客の資料を展示する永井郷土館があります。

また、永井宿から猿ヶ京方面へ少し下ると、国道に面して、三国戦争で戦死した町野久吉の墓があります。

猿ケ京関所資料館

猿ヶ京関所は、旧三国街道の関所として、徳川家光時代の寛永8年 (1631) に設置されました。群馬県指定史跡の関所役宅跡を資料館として、当時の手形や絵図などの資料を展示しています。

宮野城跡

猿ヶ京の段丘上に築かれた山城。現在は旅館の敷地内にあり、遺構は痕跡をとどめるにすぎません。上杉謙信が関東へ兵を進める際の拠点として利用されました。

伝承でありますが、永禄3年 (1690) に一泊した謙信が、前歯8本が抜けた夢を見たことを、直江山城守が関八州を手に入れる吉夢と判じ、さらに謙信の生まれた申の年でもあり、今日も申の日ということが「猿ヶ京」の地名の起こりと伝えられています。

謙信の死後、宮野城は北条方に属し、尻高左馬之助 (しったかさまのすけ)が守りましたが、天正8年 (1580) に、武田方の先鋒として沼田に進出した真田昌幸の攻勢にあい、昌幸の武将海野能登守 (うんののとのかみ)の勧告を受け入れ、城兵の助命と引き換えに城を出て自刃しました。



資料提供: 雪国観光圏推進協議会